2007年11月12日
関が原の戦い
1600年!
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で戦われた戦い。関ヶ原の役における最大の決戦である。
豊臣秀吉の死後の政権を巡って争われた徳川家康を中心とする派と石田三成を中心とする派の間の決戦。この戦いで勝利した家康は政権を完全に掌握し、徳川氏の覇権を確立した。
日本全国のほとんどの大名を徳川派(東軍)と豊臣派(西軍)に二分したことと、戦い後に情勢が徳川氏に完全に傾いたことから『天下分け目の戦い』とも呼ばれている。なお、東軍・西軍と呼ばれ始めたのは後世のことであり、豊臣の家臣同士の成敗合戦ということで、豊臣家自体表向きは静観の立場を取っていた。
よく誤解されることとして、西軍総大将は石田三成と思われやすいが、下記するとおり西軍総大将は毛利輝元である。しかし、西軍が石田三成を中心とする派閥であったことには変わりない。
天下統一を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して朝鮮出兵でも前線で戦った武断派と呼ばれるグループと、行政・経済兵站・宗教管理など戦場以外の分野で活躍していた吏僚派の対立抗争が存在したが、秀吉本人や実弟の豊臣秀長などの存在により表面化は避けられていた。
1591年の秀長の死、朝鮮出兵や撤退における対立により深刻な状況となっていた。秀吉は晩年には五大老・五奉行の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて1598年(慶長3年)8月に伏見城で死去する。ここで両派の対立は表面化し、また、五大老の徳川家康は禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切るなど影響力を強め、これに対して同じく五大老の前田利家は家康を厳しく糾弾。一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。だが最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名がこぞって徳川邸に参集し、豊臣家内部は早くも分裂の様相を呈し始めていた。
徳川邸に参集した大名:加藤清正、福島正則、黒田孝高・黒田長政父子、池田輝政、細川幽斎・細川忠興父子、蜂須賀家政、加藤嘉明、藤堂高虎、浅野長政・浅野幸長父子、山内一豊、有馬則頼・有馬豊氏父子、京極高次・京極高知兄弟、脇坂安治、伊達政宗、新庄直頼、大谷吉継など。
前田邸に参集した大名:毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、佐竹義宣、小西行長、長宗我部盛親など。
翌年の閏3月に利家が死去すると、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長の7名(『義演准后日記』ではこの他に藤堂高虎・蜂須賀家政・脇坂安治の3名も参加したとある)により、吏僚派の筆頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。三成は家康の仲介で事件の責任をとらされることになり、奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となる(この時三成が家康の屋敷に逃げ込んだとする俗説があるが、これはずっと後世の「日本野史」に出てくる話で信頼度に欠ける)。三成の失脚や他の五大老の帰国により家康の対抗勢力はなくなり、家康は伏見城から大坂城へ入城して政務を指揮する。
(以上、ウィキペディアより引用)
すごい戦いだったんですね。。
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